引越しの翌日、隣の部屋のドアがノックされた。
「はじめまして。引越しのご挨拶です」
ドアを開けると、四十代くらいの女性が立っていた。地味な服装で、笑顔が穏やかだった。受け取った手土産は、小さな和菓子の箱だった。
「よろしくお願いします」と私は言った。
それから一週間、廊下ですれ違うたびに会釈を交わした。朝と夜、必ず同じ時間に出入りしている。規則正しい人だと思っていた。
管理会社に連絡したのは、別件だった。給湯器の調子が悪く、確認してもらいたかっただけだ。
電話の最後に、なんとなく聞いた。「隣の方、感じのいい方ですね」
少しの間があった。
「隣? 203号室ですか?」
「ええ」
「あの部屋は三年前から空室なんですよ。前の方が退去されてから、ずっと」
和菓子の箱は今も冷蔵庫の中にある。開ける気になれない。